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わたしは自分がなにを感じ―なにを考え-ているかを書いてみたいと思う(キケロ)
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大河ドラマにもなった、「内助の功」の元になった山内一農の話と似た話が西洋の騎士verでありました。


概略
とある騎士はトーナメント(大騎馬試合)に出るのが大好きだった。
優勝―手柄をあげれば、一気に大出世・大金持ちになれるのだから。
だが、悲しいことに現実に彼は勝てなかった。
いつも負けては、相手に負けた分の支払いをさせられるのだった。

※騎馬試合で負けた方は「捕虜」になって、勝った相手に身代金を払って解放してもらう決まりになっている。なかには、この方法で大出世した騎士もいる。


ところが不思議な事に、彼が次のトーナメントに出る頃には、その支払いはきちんと支払われているばかりか、
トーナメントに出る費用が常に充填されているのだ。

ある時何気なく妻に聞いた所―
なんと、妻がへそくりと家計や荘園のやりくりで彼の費用を工面していたのだ。
妻に「何故そこまでして…」と彼が聞くと「夫がトーナメントで名誉を勝ち取れるならば、私は何でもしてあげられますもの」と妻は今まで隠していた事を恥ずかしそうにうち明けたのだ。

それ以来、夫婦の仲はいっそう強まったそうな―



うん。まさに「内助の功」西洋verみたいな話ですね。

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今回は、第二弾みたいな形でどんな風に中世ヨーロッパの騎士が生まれるかをみていきたいと思います。


7歳頃~
早速騎士になるため、お家から出されて他の騎士の子供たちとともに城主のもとへ連れて行かれ、そこで訓練と教育を受ける事になります。
まずは身分は「小姓」からスタートです。
食卓での給仕の仕方や簡単な家事の処理を学びます。
勿論、この時点で身分は一番低く、城従のほかの人間からあれこれ私事を受ける立場で、使いっ走りに走らされたり、洗濯仕事をあてがわれます。
そしてやはり大事なのは基礎訓練です。
要視されたのはもちろん武芸全般です。

将来、職業軍人になる彼らは走ったりよじ登ったりなど体力を必要とすることをひたすら行います。
水泳や跳躍など現代の「体育」そのまんまです。

しかし「体育」と違うのは、乗馬・剣術・槍術など戦いのための技術も学ぶことにあります。
彼らは熟練と共に集団で訓練を受け始めることになり、実践に近い状態での訓練に進みます


12歳~
より大きな場所(宮廷など)に場所が移ったら、「小姓」から「騎士見習(従騎士)」に格上げされます。
交代で領主の食事の給仕、馬の世話、馬具の整備、さらに領主がトーナメントや戦闘に赴く場合には、その装具と武具の管理、出陣前には領主に甲冑を着せる手伝いなどが主な仕事です。

そして訓練も前よりもより実践的な訓練を受けることになります。
なんといっても、騎士は体力が命です。
数時間、50ポンド(22.5キロ)の鎖帷子を着て、さらに走り回ったり武器を振り回さなければならないのですから。
勿論、力も大事です。
重い剣を振り回し、槍を小脇に抱えてダッシュし、斧を振り上げて相手に強烈な一撃を与えなければならないのですから。

まず彼等は、甲冑を着けずに徒歩や普段着(勿論、運動着)のままで武具を扱う事からスタートしました。
まだこの段階では正式な武器は貰えず、鉄をはめた棍棒が彼等の武器でした。
なので、戦闘訓練以外は実践においては、そうした棍棒を振り回して戦っていたことでしょう。

こうした訓練は、合同で行われました。そうすることで、騎士としての同胞意識、連帯感を強めたのですから。

さて、戦闘技術以外にも騎士が身に付けるものは沢山あります。
肉の切り分け方、食卓での給仕の仕方、舞踏、雅な作法の練習、狩猟、祝宴など。
後世になると、これに紋章学の基礎が必修となりました。
でないと、どこの誰と戦うか分かりませんからね。(まあ、一騎討ちを行うのはトーナメントぐらいで、実際の戦いで行うことはほとんどありません)
また、なかには音楽や文学などの教養を身に付けた者もいます。
さらには教会にわざわざ言って、文字の読み書きを習った人もいたようです。
なんといっても、当時の識字率は恐ろしく低く、文化活動のほとんどは聖職者が独占していたようなものですから。

10代後半~20代前半
能力が認められ、またそれなりに騎士として自立していくだけの財力があると、晴れて騎士に叙されます。


…しかし、騎士としての身分とそれに伴う出費を賄うだけの収入が無い場合には、数年間領地を持たないバチェラー騎士のまんまです。
なかには、生涯騎士にならなかった(なれなかった)人もいます。
しかし、こういう騎士が多かったのもまた事実です。
何故なら…
領地や財産相続権は長子相続が基本だからです。
長男は父親の領地、財産、爵位などをそのまんま引き継げる事は出来ます。
だから、騎士になるスピードは早いのです。

さてさて、次男、三男が出世していくにはどうすればいいのか。
聖職者になってひたすら猛勉強と実家のバックアップにより出世か、トーナメントに出て武勇を上げてどこかの騎士団か領主に召し抱えられるか、莫大な遺産を持った女性相続人や未亡人と結婚するなどです。



私は昔から騎士が好きで、独自に書物やネットで情報収集してきました。
そこで、覚え書きと言いますか…いつか悪魔城(レオンやマティアスぐらいにしか使えないじゃん…orz)やゼルドナーシルトでネタにするためにいくつかちょこちょこと書いていこうと思ってます。



騎士とは


騎士は、背が高く、強く、顔立ちがよく、たくましく、忠義を尽くし、勇壮で、大胆であった。
……また騎士は、慈悲にあふれるが邪なところはなく、
愛想がいいが裏切ることなく、
苦しむ者には憐れみ深く、気前よくあらねばならない。
さらに、困窮している者ならば助け、
盗人や殺人者ならば打ちのめしてしまう用意をつねにしていなければならない。
そのようなことは、好意や憎しみなどを抜きにした、公正な判断によるものである。
騎士は、不名誉よりも死を選ばなければならない。
そして、無防備な聖なる教会を護らなければならない
(―「流布本物語群」の散文、『ランスロ』より―)


騎士と言えば、私たちのイメージでは

「立派な馬に乗った、15世紀ぐらいに流行った板金の甲冑と兜に身を包んでいる背の高く、逞しい身体つきの好男子。正義と慈愛と勇気を兼ね備え、弱きを助け、強きをくじくのをモットーにしている」

です。
こんな人間おるんかい、と突っ込まれる事が多いようですが、
実際いません(爆)
しかし、こういう理想の騎士を目指して実践しようとした騎士や貴族が多いのも事実です。
さて、まずは騎士とはそもそも何なのかについて軽く見ていきたいと思います。
勿論、管理人は素人なのでそんな大層な事は書けませんが…。


騎士とは、ズバリ「馬に乗った戦士」です。

そのまんまじゃないか!という声が聞こえてきそうなんですが、実際そうなので仕方有りません。
ヨーロッパで、特に騎士と関わりの深い地域の言葉で「騎士」を見てみると…


英語…knight(ナイト)

フランス語…chevalie (シュヴァリエ)

ドイツ語…Ritter(リッター)

イタリア語…cavaliere (キャヴァリエール)

スペイン語…cavallero (キャヴァレロ)


英語を覗いて、全部「騎乗」から派生してます。
英語のナイトは、古英語で従僕」を意味するcnihtから派生したものです。

つまり、当たり前ですが騎士とは、馬を持っている事で初めて「騎士」になれます。
言うまでもありませんが、馬は維持するだけでも費用がかかります。
無論一般人が荷物運搬に使うために馬を持っている事はあります。
しかし、馬は馬でも軍事用の馬です。

馬という動物はかなり臆病です。(死角である真後ろに立つと、蹴ってきます。注意!)
そのため、戦闘用となるとまずは突撃出来るように精神的重圧で行動するための調教が必要になります。
また、完全武装した騎士を数時間乗せられるような体力や忍耐力も付けさせないといけなくなりますので、調教だけでも結構大変です。

こうした特殊な馬の値段は…

一般の馬の値段×20


さらに、戦闘中に田尾去れば場合も考えると、騎士1人につき、馬を7、8頭は所有していないと話になりません。
その維持費やコストを考えると…とんでもないお金がかかります。
そうしたお金を持っているのは、大富豪か貴族ぐらいなものです。
だから、騎士=持ち馬を持てる上級騎士というのはそうした所からも来ています。

騎士が特権階級として現れていたのは、何と古代ローマ時代からです。
ローマは歩兵が主力ですが、勿論騎士も居ました。
とはいえ、騎士になるにもこの時代から一苦労です。
この当時、ローマには騎乗者の腰や足を安定させる鐙や鞍といった馬具が無いので、騎兵たちはみんな何もない状態で騎乗していました。
それには非常に高度な技術と鍛錬が必要です。
こうしたエリート兵、またはそうした騎兵を従える貴族を騎士(当時はエクィテスと呼んでいたそうです)と呼んでいました。
この時代から、騎士は特殊な存在でした。

さて、そんな古代ローマ時代も、衰退期に入ると東西に分裂します。
東ローマ帝国は分裂後も1000年近く持ちますが、西ローマはあっという間に滅んでしまいます。

この西ローマ帝国が滅んだ後、
ヨーロッパ大陸はゲルマン民族の大移動時期に入り、混沌の時代に入ります。

常に西ローマ教会は、キリスト教化したゲルマン人の国は、
北から異民族や攻撃的なバイキング達、またはイスラム教徒たちに脅かされるようになりました。
それも年中無休で!

そのために、封建制度が発達しました。
つまり、強い武力を持っている封主(領主でもOKです)が、「わしにちゃんと仕えてくれるなら、お前達を保護してやるよ」と言って、領地の者全体を保護する制度の事です。
この封主自身も国王と「お前はここの領地を任せる。その代わり、わしが呼んだからいつでも、戦闘準備をしてすっ飛んで来い」という契約を結んでいます。
無論、軍備や兵士数も必要ですが、何よりも封主(領主)たち自身が、エリート兵士である事を要求されておりました。

しかし、これは突然ぽっと現れたのではなく、ローマ以前のゲルマン人独特の風習からも発達したという説もあります。
ゲルマン人の優秀な酋長たちは、若者たちを従わせるためにイイ武器や防具を気前よく与えたと言います。
受け取った若者は「優秀な酋長が俺に…期待してくれてる!」と、その与えられた武具で勇敢に戦ったと言います。
また、戦闘においても、気概が若者に及ばないのは長老の恥であり、長老ほど勇気を持てないのは若者の恥とされていました。
さらに、長老が戦死したのに、(勝敗に関わらず)生還するのは、最大の恥で不名誉とされました。
つまり長老が戦死したら全員退却ではなく、全員長老の側で討ち死するのが、
最高に名誉があり、格好良いとされていたのです。


うーん。日本の武士道にもこういう所ありますね…。
義経と一緒に平泉まで来た弁慶とその兵士たちの様な絶対主従関係が。

先程の封建制度の契約に、ゲルマン人のこうしたリーダーに対する絶対的な忠誠と
個人的な献身から生じる勇気と武勇は騎士階級のアイデンティティーの確立に深い関係があったのでした。

勇士は、その個人的武勇を共同体に帰する様になり、
自分が勇気を発揮するのは共同体のため、という考え方になってきました。

それは俗世間にちょっかいを出すようになった教会によって次のような三職分みたいな概念が作られてきました。

聖職者は、人々の霊的な安寧のために祈り、精神面を救い導く。
騎士は、聖職者と農民を敵から防衛し保護する。
農民は、聖職者と騎士たちのために食料を提供する。

これは、騎士の責任や役割を大幅に広げました。
それまで、騎士と君主間だけだった契約関係が一気に農民、聖職者など社会全体に広がったのですから。
さらに責任や役割が増えた事で、騎士の立てる誓いは今までは戦闘関連だけだったのが、
寡婦、孤児、老人、病人、教会の保護といった、社会福祉的でより利他的なものまで増えてきたのでした。
これが後に「騎士道精神」と呼ばれるものとなっていきました。



こうして、騎士は社会の一旦をになう存在となっていったのでした。

いわば騎士とは、経済的にも社会的にも、そしてその本分である戦闘においてもより一流を求められたエリート集団みたいなものですね。


本当騎士になるって滅茶苦茶大変です…。
きっと東大や早稲田に入る程の狭き門だった事には想像に難くありませんね。


堅苦しい説明になってしまったなあと思いつつも、
次回は騎士になるまで~騎士になるにはどうすればいいの?~をちょっとmemoしておきます。




参考文献
中世ヨーロッパ騎士事典 (「知」のビジュアル百科)
図説 西洋騎士道大全


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